純真

太宰治

 

 

 「純真」なんて概念は、ひょっとしたら、アメリカ生活あたりにそのお手本があったのかも知れない。たとえば、何々学院の何々女史とでもいったような者が「子供の純真性は尊い」などと甚だあいまい模糊(もこ)たる事を憂い顔で言って歎息(たんそく)して、それを女史のお弟子の婦人がそのまま信奉して自分の亭主に訴える。

 亭主はあまく、いいとしをして口髭(くちひげ)なんかを生やしていながら「うむ、子供の純真性は大事だ」などと騒ぐ。親馬鹿というものに酷似している。いい図ではない。

 日本には「誠」という倫理はあっても、「純真」なんて概念は無かった。人が「純真」と銘打っているものの姿を見ると、たいてい演技だ。演技でなければ、阿呆である。家の娘は四歳であるが、ことしの八月に生れた赤子の頭をコツンと殴ったりしている。こんな「純真」のどこが尊いのか。感覚だけの人間は、悪鬼 に似ている。どうしても倫理の訓練は必要である。

 子供から冷い母だと言われているその母を見ると、たいていそれはいいお母さんだ。子供の頃に苦労して、それがその人のために悪い結果になったという例は聞かない。人間は、子供の時から、どうしたって悲しい思いをしなければならぬものだ。





底本:「もの思う葦」新潮文庫、新潮社
   1980(昭和55)年9月25日発行
   1998(平成10)年10月15日39刷
入力:蒋龍
校正:土屋隆
2006年11月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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【中譯。轉載請註明來源,謝謝】

純真

太宰治 

 

 

  「純真」的概念可能在美國生活周遭有其範本也說不一定。比如說,如某某學院的某某女士那樣的人會面帶愁容感嘆地說:「孩子的純真是寶貴的。」等等極為含糊不明確的話,而女士的婦人門生就這麼地信奉著此事,並告訴自己的丈夫。

  丈夫年紀不小了,留著一嘴鬍子,評論道:「沒錯,孩子的純真很是重要。」和過分溺愛子女的糊塗爹娘極為相似。這並非良好的情況。

  在日本即使有「真誠」這樣的倫理,也沒有「純真」的概念。當見到人們打著「純真」旗號之姿態,多半是在作戲。若非作戲,就是笨呆子。我女兒四歲,但她卻時不時會「砰」地打了下今年八月剛出生的小嬰兒的腦袋。這樣的「純真」到底哪裡寶貴了?只有感覺的人類就像惡鬼。無論如何倫理的訓練是必要的。

  當見到被孩子說是冷漠媽媽的那位母親,我認為應該是位好母親。我沒聽過在孩提時期受苦,而那樣是為了讓那個人有不好的下場這樣的事例。所謂人類就是打童年開始,得有「怎麼了」這樣悲傷想法才成的東西。

 

 

 

 

 

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